噛む

あれは?と聞かれてその時ようやく気が付きました。気が利かない私が悪いんです。言われなくても印刷して持ってくるべきでした。私の顔と手元を見つめる無言の7秒間がありました。吐き出した息そのまま、その人は自分用の資料の最後のページを千切って渡しました。コピーしましょうか、と女性は言いましたが、いいですそれそのまま使ってください、とその人は答えました。私はずっとそばに立って話を聞いていました。

その人を駅まで送り届ける途中、曲がる角を間違いました。私は、すみませんと何度も謝りました。その人はあまり気にしていないようでした。いいよ、いいよ。ぐるっと遠回りをして駅に着きました。

ひとりになって近くのコンビニに車を停めました。水を飲んだあと、キャップを開けたままドリンクホルダーに戻そうとしたらボトルを倒してしまって、濡れた後部座席をティッシュで拭きました。そうして少し泣きました。ポーチに入れていたミルク味の飴を噛み砕いて舐めました。

再び女性のところへ向かいます。子どもにお使いを頼むときのように繰り返される依頼内容を聞いて、また飴を噛みたくなりました。マスク着用が義務化していて良かったって時々思います。荒れた唇が熱いです。

初めに電話をかけたときは会議中で、2度目は別の部署に行っていて、3度目はまだ戻っていないと言われて、3度目の電話の直後に送ったメールにはすぐに返信がありました。今日は全然ついていない、なんだかいろんなことが上手くいかないです。

突き刺さりますね、と言っていたのをどうしてだか思い出します。湿度が低くて風が冷たい、よく晴れた日でした。大丈夫だと言われなくても、大丈夫と言われたような安心感があります。でも今日はそれでも不安になります。大丈夫と言ってくれるあの人でさえもう、私を見放すのではないか。大丈夫と言わせている私が嫌になります。両手で顔を押し潰して息を止めて喉が鳴ります。借りたビジネス本を読まずに返しました。人差し指をぐっと舌の付け根に押し付けて胃が収縮するのを感じます。私が悪いんです。なんだかうまくいかないんです。全部、ぜんぶ。左の奥歯が少し痛みます。