抄 #2:口にされたこともないそれら

もし人が藺草の茂みに腰を下ろして池を見るならば——池というものは何かしら不可思議な魅力を持っている。人が説明することのできない魅力を——赤と黒の文字が記された白く薄い紙が水の表面に貼りついているといった印象を覚えるだろう。また一方、その下では理解の及ばない水の生活が営まれているという印象も受けるはずである。人の精神における思案や熟慮といったものによく似た営みがそこで行われているという印象を。時の推移にかかわらず、時代の推移にかかわらず、多くの者が、ひじょうに多くの者が独りでここにやってきたに違いない。自分の想念を水のなかに流しいれるために、何事かを池に尋ねるために。この夏の夕つ方ここにいる者がちょうどそうしているように。たぶん池が魅力を持つのはそのせいだろう——池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。葦の刃によってふたつに断ちきられ、その隙間を一匹の魚が擦り抜けていく。月の皓く大いなる円盤はそうしたものすべてを殲滅する。池の魅力は立ち去った者たちが残した想念の存在ゆえである。そして肉体から離れた想念は自由に、親密に、会話を交わしながら、出入りする。共有地のこの池に。

ヴァージニア・ウルフ『池の魅力』

抄 #1:ほっと息がつけるんだわ!

でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち——ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……ほっと息がつけるんだわ!

ほっと息がつけるんだわ! その時、わたしたちの耳には、神さまの御使たちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな——世界じゅうに満ちひろがる神さまの大きなお慈悲のなかに、呑みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしく撫でてくださるような、静かな、うっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの。……お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……ほっと息がつけるんだわ!

ほっと息がつけるんだわ。

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』

portare #1

幽霊のようなギターの音を聴かせて
生ぬるい風が運んでこなかったもの
もっと もっと 怖い思いがしたい
無防備な首元はなにをも受け入れる
急速に過去になりゆくシンクの泡も
いつも いつも 気配だけ肩を抱く
欲しいのは消えてしまってもいい光
セピア色の浅い眠りと砂をはらんだ
幽霊のようなギターの音を聴かせて
取り込んで絡みとってそこへ運んで

ドアスコープをのぞいたらオレンジ色がそこにあったので、そのまま音をたてないように後ずさりして、部屋に戻って布団に潜りこんだ。うっかり血をつけてしまったシーツをはやく洗わなくては。マンボウが生きたままアシカに齧られている。AIが作ったショート動画を見て、マンボウの味を想像する。齧られた跡からのぞくマンボウの肉は白色だけど、どこまで嘘で、どこまで本当なのだろう。

布団から顔を出す。窓から見える向かいの建物の屋上ではオリーブの木が風に揺れているが、ミュートしたかのように音が無い。とろとろと重たくて濃い空気が満ちていく明るい部屋、波のように押し寄せ、潮位が高くなるように増していく眠気で目が開けられなくなる前に、繰り返し再生されるマンボウの動画を閉じた。

ハリー。突然に電話をかけてきた。

おそろしい夢を見たのだと言いたかったけれど、どんな夢だったか思い出せなくて、ただあなたの話を聞いていた。ここまでは嘘。私は、楽しい話をした。

おそろしいことはたくさんある。

不在

移動しているあの人のことを考えていた。時速60キロ/130キロ/300キロであらゆるところを通過して、この瞬間どことも言えないところにいるあの人は、実際にどこかにいるのだろうか。
瞬きをしたらもう何もかもが過去だった。ベランダでは干しているシャツが風に揺れ、かろうじて夕方をかきまぜる。乾いていく。乾いていく速度に追いつけないまま、私だけが過去にさえなれないでいる。氷は融けていくのに、日は暮れていくのに、あの人はどこにもいないのにどこにでもいて、そしてそれはこの瞬間の私(だけ)が作り上げているのであって、あまりの頼りなさに動けなくなる。

高速で過ぎ行く緑、家々、電灯が作り出す点と線を、あの人の目を借りるようにしてなぞる。そういうときは、目を瞑るのではなく、少し遠くをみるようにして、どこにも焦点を合わせないようにすると良い。いちばん考え事が捗るのは、誰かの目の底をのぞいているようなときで、ただ、それはあまりよくない事なので、少し遠くを見るようにする。

本当のことを少しだけ言うと、この数時間、だけでなく、ここ数日、数か月は〈わかりやすく誰かのために生きる〉ということについて断続的に考えているのだと思う。

光への慈しみ

どうしていつもあなたが近くにいると 鳥たちはふいに現れるのだろう
どうしていつもあなたが通りかかると 星は空から落ちてくるのだろう
私と同じであなたのそばにいたいのね
あなたが生まれた日 天使たちは集まって 夢を叶えることを決めた
だから 金色の髪に月のかけらを 青い瞳に星のひかりを振りかけた
街の女の子たちがみんなあなたについてまわるのもそういうことなんだ
私と同じであなたのそばにいたいのよ

よく晴れた冬の日は薄いガラスのように脆いから、慎重に歩いた。
いっそのこと雪が降ればいい。太陽光が雪片に反射してとても目を開けていられないくらいに眩しくなれば、私たちは子供になって今よりもっと大胆に歩ける。それとも、枯葉を集めて山にして全部燃やしてしまおうか。どこへも行かずに耿々と燃える火を眺めていよう。
最近は何が楽しい?と訊かれて、特に思い浮かばなかったので、日々の生活が楽しいと答えた。割引率を間違ったポテトサラダが売っていて買うかどうか真剣に悩んだこと。二本のあみだくじの勝負で線を引かずに勝ったこと。

「そういう話、たまに見に行って読むの好きだから投稿してよ」

カーペンターズが歌うこの曲の邦題が「遥かなる影」だということをつい最近知った。遥かなる影。慈しむという言葉を辞書で引いたら「弱い立場に置かれたものを大切に守る」と書いてあった。影は光が無いと生まれないから、光と比べると弱い立場なのかもしれない。その意味では矛盾するのかもしれないが、これは影から光を慈しむ曲だと思う。光源の〈あなた〉は輝く運命にあってこれからも周りを照らし続けるのだという、どこか全知の視点に立ちながら、愛おしく大切に思うような感じがする。ただそれはあくまで人間的な慈しみで、きっと神の慈愛とは違うのだろう。遠くに輝く光を慈しむことで〈私〉自身が救われることがある。
カレンは摂食障害を患い32歳で亡くなった。YouTubeでいくら調べても画面の中のカレンはずっと若いままで、リチャードだけ歳を取った。リチャードは78歳となった今もピアノを弾いていた。

慎重に歩かなくてはいけない。夜になったって冬は張り詰めたまま、刺し込む隙を窺っている。さっきまで月が出ていたはずなのにどこに隠れてしまったのだろう。もう誰もいない。誰も歩いていないし、何も聞こえない。暗い道を抜けて街の灯りに早く辿り着きたかった。毎日楽しくて、同じくらい毎日悲しい。

日記|暗闇の粒

映画館を出てスマホの電源をつけるとメッセージの通知があった。なんだろうと思って開いたら、グループに向けてのメッセージだった。私個人宛でないことに気がついて、なぜだか涙が出てきてしまった。私は未だに、私はこれから、私、と繋がる言葉が見つからなくて混乱する。こんな調子で私はこの先大丈夫なのだろうか。今日、3月までと告げた。
映画を見て感傷的になっているからだ。賑やかな夜の新宿を歩くだけで涙が溢れてくるので早足になった。すべてわかる。この道も、いま来た道も、店の明かりやふと見上げたときの景色も、人たちがつくる声の大きな流れも、駅の改札を通って13番線のホームにあがるまでの何もかも。
ずっと映画館にいたい。映画が始まる直前の、真っ暗で無音の時間が好きだと思った。暗闇の粒がぎっしりと空間全体に広がって包まれるような、あの感覚。奥深くまで静かになる。次の瞬間に真っ白な画面があらわれて、粒は一瞬で消え去り、遠くから音が聞こえてくる。
音楽をライブで聴いたり映画館で映画を見ると、ほとんどの場合泣いてしまう。これは感動しているからかと思っていたが、もしかしたら大きい音に驚いているだけかもしれない。昔から、お祭りの大太鼓の音を聴く度に自分の身体に響いてくる振動に敏感になっていた。その時と同じような共振する感覚を、映画館で重低音の効果音を聞いた時に覚える。でも大きい音が嫌いというわけではなくむしろ好きで、好きだけど身体的には苦手なのかもしれない。

新宿ピカデリーで「HAPPYEND」という映画を見た。

実家で「僕」で友人の前では「俺」、実家では君付けで友人を紹介するけれど友人には名前呼び捨てで話しかける、という言葉の使い分けについて電車で隣に座った男性が話している。ぐうぜん昼間に男性学の本を読んでいたので、面白いなと思って盗み聞きしていたら、彼の隣に座る女性が、へえと言って「じゃあ私が実家に行ったらどう紹介する?」と返していた。こういうことだ、と思った。こういうときに私はきっとそんなふうに返せないから、だめなんだ。密かにけっこう落ち込んだ。「ちゃん付けで呼ぶかな」と返す男性は、彼女のことを呼び捨てで呼んでいた。

私はこの映画が好きかもしれない。あまり自信はない。中高生が主役の物語はそんなに得意じゃない。わざとらしいところも多かった。政権や学校に不満を持つ学生が、本からそのまま取ったような言葉で権力者を批判するところなど。製作者が伝えたい政治的メッセージはいろいろとありそうだけど—―むしろ明確なので――それは置いておくとして、音楽研究部5人の関係性が見どころだった。前提としての仲の良さ、バランスの良さ、信頼関係は、あり得るのかどうかを考えるくらい理想的だった。自分たちが幼馴染じゃなくて、いま出会っていたら仲良くなっていたか?と問うことは苦しい。そんな仮定に意味はないと言い切れたらいいのに。
映像が美しかった。各ショットのポストカードがあれば欲しいくらい。

メモ:友情 ひっついて眠るような 理不尽と「普通」あるいは正当化 終末の予感、例えば予測される大地震緊急地震速報、首相襲撃(銃でなくお弁当で!)、デモ暴徒化 外国にルーツを持つ人たちとの共生/排除 自警団のような近所の人たち AI管理社会 歩道橋 朝 古い音楽としてのテクノ

私は私だけで大丈夫になりたい。誰かと一緒にいるには今のままでは弱すぎる。これでは誰かを頼ってきっと困らせてしまう。と、ここまで書いて、これは嘘だと思った。本当は、誰かを頼って困らせてしまうことに後ろめたさなど感じていないのだろう。

お昼の食事会でいただいた肉料理が重ためだったから、胃腸を労わって夜は何も食べずに寝る。シュラスカリア(churrascaria)(というのか!)初体験だったが、楽しいお店だった。
今週平日の夜はずっと蒸し野菜を食べていた。大きい鍋に蒸し器を広げて、蓮根や人参や白菜を並べるだけで簡単。IHで加熱している間にさっとシャワーを浴びて、着替えたころにちょうどいい蒸し上がりになる。胡麻油と塩を少しかけて食べるとおいしい。