おじいちゃんの話

ミサが病気になった。最近は夏バテして食欲がないと言ってすぐに自室へ行ってしまうし、夜中に何度も目を覚ましているようだった。頭痛薬の空箱が捨てられているのを見つけた日、あなたはミサに一度病院に行くように言っていたのだった。ミサが医者から聞いてきたのは、滅多に風邪もひかない彼女には似つかわしくない、難しい漢字が使われている病名だった。

ミサが入院する日、あなたは仕事を休んだ。病院へは夕方に行く予定だった。それでも朝からその時間まで仕事に集中できる気がしなかった。心配性なあなたに、ミサは笑って「歩けないわけじゃないし一人で行けるよ」と言った。病院へ向かう間、ミサが運転する車の中、あなたとミサは何も話さなかった。なんとなく付けたラジオは交通情報しか流さなかった。ミサは三日後に簡単な手術をし、その後一か月入院することになった。感染症対策のため、入院中も面会はできないと医者から聞かされた。帰り道、今度はあなたが運転する。ラジオがうるさかったので消した。

市子が入院したのもちょうどこの時期だった、とあなたは思う。入院して一年半後に市子が死んで、ミサとあなたの二人暮らしになった。あなたと市子とミサは幼稚園からの友人だった。小中高も同じ学校で、親同士もそれなりに仲が良く、いつも一緒に居た。同級生たちはあなたたちについて色々と噂したが、あなたたちはまるでそれらの噂が聞こえていないかのように――実際に聞こえていなかったのかもしれない――三人で青春時代を過ごし、高校卒業を迎え、あなたと市子はそのまま実家から通える街で就職し、ミサは他県の大学へ進学した。

あるとき、あなたの両親が旅行先での事故で亡くなって、家があなたのものになった。あまりに突然で早すぎる両親との死別にショックを受けて、ごはんをまともに食べられなくなったあなたの異常に気付き、支えてくれたのは市子だった。あなたにとって両親のいない家はあまりに広すぎた。二階の自室から居間のある一階へ降りられなくなったあなたのために、市子は何度も階段を上って下りた。仕事終わりにあなたの家に来ては、柔らかくて温かい食べ物を用意して、洗濯をして、週に一度は家の窓をすべて開けて空気を入れ換えた。一階に残されたままだったあなたの両親の荷物のほとんど全てを市子は捨てた。しばらくして、あなたがまともな時間に寝て起きて、一階にも降りられるようになった頃、市子が一緒に住んでも良いかとあなたに訊いた。その日から、あなたと市子はふたりで暮らしはじめた。

ミサがいない家にあなたは帰ってきた。日は暮れて、家の中は薄暗く、静かだった。病院は白くて眩しかったから、これくらいの明るさが心地良かった。この家でひとりで過ごすのは、市子が越してくる前以来で、本当に久しぶりだった。静かな家を確かめるように歩き回ったあと、あなたはお酒を飲むことにした。

あなたはまた市子を思い出す。市子はお酒が好きだった。同居を始める前から二人で何度もお酒を飲みに出かけていたから、市子が酒好きであることをあなたは知っていたけれど、一緒に住みはじめてから市子が家でもほぼ毎日お酒を飲むことを知って、さすがに少し驚いた。お酒をほとんど飲まないミサは、市子とあなたが飲みすぎると寂しくなった。ミサはお酒の味が好きではなかったし、お酒に頼る人を敬遠していた。ミサはあなたたちのことをお酒に頼る人たちだとは思っていなかった。それでも、あなたたちが酔ってふわふわと笑い始めるたびに、お酒を飲んだことのなかった三人と今ここにいる三人の相違点を考えてしまって不安になった。市子がいなくなってから、あなたはお酒を飲まなくなっていた。

戸棚を探すと赤ワインとウイスキーがあった。

「どうして全部捨てたの」「だって、あっても困るでしょう」「でも、遺品というか、時計とかちょっとした物は残しとくじゃん普通」「どれが大切なものか私には判断できないしそれに、」「どれを残すか聞いてくれたら良かったのに」「あなたもきっと判断できなかったよ」「それに、生きているあなたが自由に暮らせるほうが大切でしょう」「私がいつかいなくなったとき、私のもの全部捨てられるあなたであってほしいな」「ねえ、泣かないで、もう大丈夫なの、だから、泣かないで」

あなたはもう大丈夫だった。ミサがいなくても、市子がいなくても、ひとりでこの家で過ごすことができた。洗濯も料理も普段からしていて、ミサがいてもいなくても手間は同じだったし、むしろ、常識人のミサがいない間どんな不摂生をしてやろうか、と企む余裕さえあった。とはいえ、何年もミサと暮らし、まともな生活の方法を訓練されたあなたができる抵抗は、お酒を飲むことくらいだった。

もうひとつ、ひとりで過ごす中で変わったことといえば、蛍光灯をつける気分になれないことだった。日が暮れたら、あなたは白熱電球が光るデスクライトのスイッチをつけ、災害時用の大きなロウソクに火を灯し、移動するときには懐中電灯を使った。バスルームの照明はつけるがベッドサイドランプはつけない。換気扇のライトはつけるが廊下のダウンライトはつけない。あなたはあなた自身でもうまく説明できないルールに自ら縛られ、仄暗くなっている家で夜を過ごした。夜になるとあらゆる光が眩しすぎたから。それに、あなたは見つからないように隠れていたかった。誰から隠れていたのかはわからない。あなたを探しているのは、母のような気もしたし、強盗のような気もしたし、おばけのような気もしたし、市子であるような気もした。