ため息

 遠山さんは言う。

「くだらないでしょう。どうして私に言うの、って思うときもある。それくらい自分でやればいいのに、とかね。でもね、いいの。私たちはずっとどこまでも他人だから、せめて彼にとって一番近い他人でいられるようにと思って、私が好きでやっていることなの。彼のためっていいながら結局自分のためなんだよね。最初はそうじゃなかったんだけどな。ちゃんと私は私で、あの人はあの人で。二人の間に境界線があった。でもだんだんその線が薄くなってきて、いつからか、線が完全に消えたらあの人の一番近くにいられるんだ幸せってそういうことだって、思って、私が、私が線を消してきたの。みんな誤解しているようだけれど、あの人が線を越えて私を侵害してきたんじゃないの」

「あの人、夜ご飯は六時って決まっているの」遠山さんは帰ると言えないひとだった。

 遠山さん、わたしは、あなたのことを、あなたの書くものが、読みたいです。あの人がいなくなったときあなたは、何を食べますか。まだ、まだ、まだ。昨日の夜にはたくさんあったんです、分けたいものが、分けてほしいものが、まだ

 帰り道、遠山さんとあの人のあいだに生まれるはずだった子どものことを考えようとしてやめた。そのかわりに、線について考えた。

 遠山さんとあの人のあいだにある線は、グラウンドに石灰で引かれている線。遠山さんがぐりぐりと地面に靴を擦り付けて消している。怒っているの。そんなことしなくても雨や風で消えていきそうなのに。遠山さんは砂を含んだ風に吹かれながら、ひとりで、線を蹴り続けていた。遠山さんはきっとまたあの人のことで怒るのだろう。あの人のことで怒ったり疲れたりしている彼女を見ると落ち込んでしまう。泣いてほしい、とさえ思う。私はいつかその子が書いた詩を翻訳することになる。遠山さんは私に頼むのだ。必ず。

***

まったく理解できなかったら良かったのに、隙間から溢れ出ている糸のように細い煙を手繰り寄せようと覗く。ドライアイス二酸化炭素のあなたの骨の線を、口内で溶かしたバニラアイスを掬い取った指先で丁寧になぞって、あ、あ、私だけ汚い、どろどろに熱い。もうそういうところから君たちは違っている、と誰かが言う、誰が。

昨夜は風が強かった。カーテンが揺れる様子を見ながら暗い部屋でうとうとしていると生霊になってしまう気がした。