メダカ

帰りに立ち寄るスーパーの中に花屋がある。そこでメダカが売っている。スタバのフラペチーノを思わせるプラカップに、水草と一緒に2匹入れられている。

知り合いがいない街で暮らし始めて2か月が経った。起きて会社に行って帰ってきて眠るだけという生活リズムのおかげで、時々寂しいということを忘れている。ただ、寂しさは忘れているだけで消えてはいなくて、通勤電車の中で友人が住む街の駅名を探してしまった時や3時間の通話を終えた時にはどうしようもなくなって、一瞬動けなくなってしまう。

そんな寂しさを埋めるためにメダカを飼おうか、と花屋の前を通るたびに考える。毎回プラカップに手を添えてまで、この子たちを連れて帰ろうかと真剣に考えるのだけれど、どうしても飼えないという結論に辿り着いてしまう。憶病なのだと思う。眺めていると、メダカを愛でる生活よりも血液の循環が止まったメダカの死体が思い浮かぶ。

小学生の頃、飼っていた金魚が死ぬ瞬間を見たことがある。その金魚は弱っていて、鱗がはげた体を傾けながら流されるように泳いでいた。私がなんとなく眺めていると金魚は急に色を失くした。さあっと色が抜けていった。死んだのだ、と思った。実際その金魚はその瞬間から動かなくなり水槽の底に沈んだ。なぜか悲しくはなかった。金魚が死んだ金魚になっただけだった。

花屋でメダカを見ていると、メダカが死んでしまうときのことを考えてしまう。色を失ったメダカを土に埋めるかトイレに流すか燃えるゴミにするか、網が無いから死体を指でつまむしかないか、残った餌はどうするか。やはり憶病なのだ。このメダカの命さえ、責任取って持ち帰ることができない。

寂しさを埋める手段は他にもある。お仕事はなんだかんだ毎日忙しくて新人の私は覚えなきゃいけないことも多いし、聴きたい音楽と観たい映画と読みたい本は数え切れないほどあるし、お酒も飲めるし、ちょっと勇気を出せば話したい人と電話ができる。外出自粛で会いたい人に会えなくてもギリギリまだ大丈夫。メダカを飼うのは窮策、ひとりの街に耐えられなくなったときの最終手段にする。次に花屋の前を通ったら、メダカではなく芍薬を買おうと思っている。