日記|暗闇の粒

映画館を出てスマホの電源をつけるとメッセージの通知があった。なんだろうと思って開いたら、グループに向けてのメッセージだった。私個人宛でないことに気がついて、なぜだか涙が出てきてしまった。私は未だに、私はこれから、私、と繋がる言葉が見つからなくて混乱する。こんな調子で私はこの先大丈夫なのだろうか。今日、3月までと告げた。
映画を見て感傷的になっているからだ。賑やかな夜の新宿を歩くだけで涙が溢れてくるので早足になった。すべてわかる。この道も、いま来た道も、店の明かりやふと見上げたときの景色も、人たちがつくる声の大きな流れも、駅の改札を通って13番線のホームにあがるまでの何もかも。
ずっと映画館にいたい。映画が始まる直前の、真っ暗で無音の時間が好きだと思った。暗闇の粒がぎっしりと空間全体に広がって包まれるような、あの感覚。奥深くまで静かになる。次の瞬間に真っ白な画面があらわれて、粒は一瞬で消え去り、遠くから音が聞こえてくる。
音楽をライブで聴いたり映画館で映画を見ると、ほとんどの場合泣いてしまう。これは感動しているからかと思っていたが、もしかしたら大きい音に驚いているだけかもしれない。昔から、お祭りの大太鼓の音を聴く度に自分の身体に響いてくる振動に敏感になっていた。その時と同じような共振する感覚を、映画館で重低音の効果音を聞いた時に覚える。でも大きい音が嫌いというわけではなくむしろ好きで、好きだけど身体的には苦手なのかもしれない。

新宿ピカデリーで「HAPPYEND」という映画を見た。

実家で「僕」で友人の前では「俺」、実家では君付けで友人を紹介するけれど友人には名前呼び捨てで話しかける、という言葉の使い分けについて電車で隣に座った男性が話している。ぐうぜん昼間に男性学の本を読んでいたので、面白いなと思って盗み聞きしていたら、彼の隣に座る女性が、へえと言って「じゃあ私が実家に行ったらどう紹介する?」と返していた。こういうことだ、と思った。こういうときに私はきっとそんなふうに返せないから、だめなんだ。密かにけっこう落ち込んだ。「ちゃん付けで呼ぶかな」と返す男性は、彼女のことを呼び捨てで呼んでいた。

私はこの映画が好きかもしれない。あまり自信はない。中高生が主役の物語はそんなに得意じゃない。わざとらしいところも多かった。政権や学校に不満を持つ学生が、本からそのまま取ったような言葉で権力者を批判するところなど。製作者が伝えたい政治的メッセージはいろいろとありそうだけど—―むしろ明確なので――それは置いておくとして、音楽研究部5人の関係性が見どころだった。前提としての仲の良さ、バランスの良さ、信頼関係は、あり得るのかどうかを考えるくらい理想的だった。自分たちが幼馴染じゃなくて、いま出会っていたら仲良くなっていたか?と問うことは苦しい。そんな仮定に意味はないと言い切れたらいいのに。
映像が美しかった。各ショットのポストカードがあれば欲しいくらい。

メモ:友情 ひっついて眠るような 理不尽と「普通」あるいは正当化 終末の予感、例えば予測される大地震緊急地震速報、首相襲撃(銃でなくお弁当で!)、デモ暴徒化 外国にルーツを持つ人たちとの共生/排除 自警団のような近所の人たち AI管理社会 歩道橋 朝 古い音楽としてのテクノ

私は私だけで大丈夫になりたい。誰かと一緒にいるには今のままでは弱すぎる。これでは誰かを頼ってきっと困らせてしまう。と、ここまで書いて、これは嘘だと思った。本当は、誰かを頼って困らせてしまうことに後ろめたさなど感じていないのだろう。

お昼の食事会でいただいた肉料理が重ためだったから、胃腸を労わって夜は何も食べずに寝る。シュラスカリア(churrascaria)(というのか!)初体験だったが、楽しいお店だった。
今週平日の夜はずっと蒸し野菜を食べていた。大きい鍋に蒸し器を広げて、蓮根や人参や白菜を並べるだけで簡単。IHで加熱している間にさっとシャワーを浴びて、着替えたころにちょうどいい蒸し上がりになる。胡麻油と塩を少しかけて食べるとおいしい。